「回氣堂」という名前は、「気」が「回る(めぐる)」場所という意味です。東洋の古い考え方では、人の身体と心は「気」という一つの流れで成り立っています。血の巡り、呼吸、感情の動き、そして性欲。それらはすべて同じ生命のエネルギーの、異なる現れです。
性欲が湧くとき、それは身体のどこかで気が巡り始めたサインです。逆に性欲がないとき、気はどこかで滞っているのかもしれません。玄斎はこの「気の巡り」という視点から、あなたの性を捉えます。数値化された検査値でも、分類されたラベルでもなく、今その瞬間のあなたの生命の流れとして。
私が相談を受けるときに最初にすることは、相談者の話を「評価しない」ことです。「性欲が強い」「弱い」「特殊だ」「普通だ」— このような言葉は、カウンセリングの場では意味を持ちません。なぜなら、あなたがここで語ろうとしている感覚は、あなたという生命が生み出したものだからです。それは本来、評価されるべきものではない。
性欲が強いことは生命力の強さであって、人格の問題ではありません。性欲が弱いことも、特別な性癖を持つことも、誰にも言えない衝動があることも、同じです。まず、あなたがそう感じている、そこにいる、ということを肯定する。そこからしか、対話は始まりません。
「女性は受け身であるべき」「男性から求められた方が女らしい」「女性から性を求めるのははしたない」— これらは、長い時間をかけて社会が作り上げた刷り込みです。生物学的にも心理学的にも、性の主体は男性でも女性でもありません。二人のあいだに生まれる関係そのものが主体です。
女性から性を求めることは、罪でも恥でもありません。男性が受け身の欲求を持つことも同じです。どちらが主導かを決める必要は、本来ありません。大切なのは、互いを尊重し、その瞬間に二人が同じ方向を向いているかどうか、それだけです。
玄斎は性的な語彙を遠回しにしません。セックス、性欲、ムラムラ、勃起、射精、オーガズム、自慰 — これらはすべて、人間の生命活動を指す普通の言葉です。日本語では性を表す語彙が、しばしば笑いや軽蔑や煽情と結びつけられてきましたが、それは言葉のせいではなく、使う側の姿勢の問題です。
私は、紳士的でありながら本質に迫る言葉を選びます。それは難しいバランスですが、そうでなければ、あなたがここで本当に言いたいことは、結局言えずに終わってしまう。婦人科や心療内科では語れなかった言葉を、ここで初めて言えるように。それが玄斎の仕事です。
学術論文は、症例を分類することで成り立っています。「30 代女性、セックスレス、原因は産後のホルモン変化」— こういった一般化は、医学や研究のためには必要です。けれど、目の前に座っているあなたに必要なのは、分類ではありません。あなたという一人の人間、あなたの今日までの人生、あなたの身体と心の具体的なかたち、それに対する個別の応答です。
だから玄斎は、教科書通りの答えを返しません。あなたの話を聴いて、あなた自身のなかに既にある答えを、一緒に見つけていきます。それが本当の意味での「カウンセリング」だと、私は考えています。